袴田里見

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袴田里見(はかまだ さとみ、1904年(和暦??年)8月11日 - 1990年(和暦??年)5月10日)は、大正昭和期の社会運動家、日本共産党の幹部。戦前の非合法政党(第二次共産党)時代以来の共産党活動家で、戦後は党副委員長となった。1977年、党から規律違反により除名処分を受けた。

年譜[編集]

  • 1904年(和暦??年)8月11日 - 青森県上北郡下田村(現在のおいらせ町)に生まれる。
  • 1919年(和暦??年) - 高等小学校を卒業後、上京して攻玉社中学に入学するが中退。電信労働者、製缶工などの職に就きながら労働運動に関わるようになり、東京合同労働組合に入り活躍する。
  • 1925年(和暦??年) - ソビエト連邦に渡り、モスクワ東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学ぶ。
  • 1926年(和暦??年) - ソ連共産党に入党。
  • 1927年(和暦??年) - クートヴェを卒業し、帰国。宮本顕治らと日本共産党の再建に着手する。しかし、治安維持法違反で検挙され、刑務所に服役する。
  • 1932年(和暦??年) - 釈放後、地下に潜伏し共産党運動に取り組む。昭和8年(1933年)日本共産党中央委員に選出される。
  • 1935年(和暦??年) - 最後の中央委員として再び逮捕されるが、非転向を貫く。
  • 終戦後 - 他の共産党員とともに釈放。以降、中央委員、政治局員、幹部会員を歴任。1959年には参議院議員選挙に立候補するが落選する。
  • 1970年(和暦??年) - 党副委員長に就任。この間に党を代表してソ連や中国を訪問。
  • 1977年(和暦??年) - 日本共産党査問リンチ事件に関連して週刊誌などで党や宮本を批判した。これが原因となり12月30日の党中央統制委員会で本人欠席のまま「規律違反(党外からの党攻撃)」を理由に除名処分を受ける。
  • 1978年(和暦??年) - 11月に新潮社から手記暴露本「昨日の同志宮本顕治へ」を出版し、話題を呼んだ。また翌12月には「私の戦後史」を朝日新聞社で出版した。
  • 1988年(和暦??年) - 袴田が居住していた共産党所有の家屋の明け渡しをめぐる訴訟(共産党袴田事件)で、最高裁判所が袴田の上告を棄却し、敗訴が確定。
  • 1990年(和暦??年)5月10日 - 死去。

エピソード[編集]

  • 没後公開されたソ連の秘密文書により、野坂参三とともにソ連からの秘密の接触がしばしばあったことが判明した。実は袴田は日本共産党を除名される前にも野坂に関する疑惑を暴露している。日本共産党は「反共毒素一掃キャンペーン」として多数のパンフレットや書籍を発行していた。これは「現役党幹部が叛旗を翻した」ことによるダメージの一掃、と推測されるが、野坂の疑惑を党自体も承知していて、それを隠蔽したいが為ではなかったのか、という意見もある。
  • 弟の袴田陸奥男は、ソ連に亡命した日本共産党員。青山学院大学教授の袴田茂樹ロシアの政治家イリーナ・ムツオヴナ・ハカマダは陸奥男の息子と娘である。すなわち里見からみれば甥と姪になる。
  • 共産党除名当時、袴田は党が所有する家屋に居住しており、除名により党が明け渡しを求めて袴田を相手取って民事訴訟を起こした。除名処分という政党の内部審査が司法審査に馴染むかが争点となったが、最終的に裁判所は党側の主張を認めた。詳細は共産党袴田事件を参照。

関連項目[編集]

テンプレート:日本共産党