萩本欽一

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'''萩本 欽一'''(はぎもと きんいち、[[1941年]][[5月7日]] - )は、[[日本]]の[[コメディアン]]である。[[日本野球連盟 (社会人野球)|日本野球連盟]][[茨城ゴールデンゴールズ]]監督、司会者、舞台演出家としても活動している。 [[東京都]][[台東区]]出身。身長162cm、体重65kg。[[駒込高等学校]]卒業。血液型A型。[[浅井企画]]所属。大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「'''欽ちゃん'''」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「'''萩モー'''」「'''萩'''」など。また、彼の番組や舞台から育ったいわゆる[[欽ちゃんファミリー]]には「'''[[大将]]'''」と呼ばせている。<!--[[香取慎吾]]から「'''ハギー'''」と呼ばれたこともある。--> [[1970年代]]、[[1980年代]]に、「なんでそーなるの!」という[[ギャグ]]や、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は[[東八郎]])など体を使った[[笑い]]、さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させるなど活躍した。「どっちらけ」、「バンザーイなしよ」等今も語り継がれるギャグも多い。現在ごく普通に使われる「ウケる」(ややウケ、バカウケ等)という言葉も、最初は『[[欽ドン!|欽ちゃんのドンといってみよう!!]]』から広まったと言われている(芸人言葉を一般にも広めた)。 ==来歴== ===コント55号以前=== 幼い頃から裕福な家庭で育っていたが、父親の事業の失敗で極貧生活を強いられる。 極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金を貰っている姿”を見たことがきっかけで中学卒業と共に芸人を目指す。浅草を代表する喜劇役者・[[大宮敏充]]の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られる。<br /> 高校卒業後、[[浅草公園六区]]にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた[[浅草松竹演芸場]]へと赴くが、「だめだったらウチにおいで」という言葉をきいた事で寸前で入門することを取りやめ、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。 東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼等の大師匠筋である浅草の首領こと[[深見千三郎]]([[ビートたけし]]の師匠)からも薫陶を受け、大いに可愛がられる(もっとも、テレビ進出後に世間へイメージが良くないと判断し、浅草ストリップ劇場修行の過去を隠蔽し、全く浅草を避けるような行動に走る萩本を見て、深見は『萩本の野郎恩を忘れやがって』と萩本に怒りをぶつけていた)。 入団当時、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい。」と言われて落ち込み諦めようとした際、池が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっと居ていいよ。」と萩本を引き止めた。その後、その演出家から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ。」と池が言っていたことを知らされる。さらに、その演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ。」と言われ奮起。その後、誰も居ない劇場早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になった。 その後、父親の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあった。しかし、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本に渡した。これには、萩本も感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した。 東洋劇場で上達した頃、同系列の[[フランス座|浅草フランス座]]へ出向。[[ストリップ]]の幕間[[コント]]で更に腕を磨く。ここで[[漫才師]]崩れの専属コメディアン・安藤ロール(のちの[[坂上二郎]])と知り合う。しかし、当時は共演というよりはむしろ競演で、お互いに自分だけがウケようと衝突していたとの事である。彼の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」というものだったそうだ。 その後萩本は東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て浅草松竹演芸場で劇団浅草新喜劇を旗揚げして座長公演を行う。同時期に、放送作家の[[はかま満緒]]に師事してお笑い作りに本格的に取り組む。ここで、後年コント55号の殆どの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。さらに、はかまのツテで、[[東京放送|TBS]]のプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二([[浅井企画]]代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始。向井の手掛ける公開コメディー番組『じんたかパンチ』のコマーシャルに起用される。しかし、ここで緊張したのか気負ったのか、萩本は異例ともいえる21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。 失意の萩本は、テレビ進出を諦め生涯舞台役者で生きていくことを決意。浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。ここでたまたま考案した一人コント「机」が、後年日本中を席捲したコント55号の端緒となるのである。 また、後に『[[快獣ブースカ]]』で脚本家デビューすることになる[[市川森一]]と、はかま満緒師事時代に友人であった。市川は後年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の開局40周年スペシャルドラマ『[[ゴールデンボーイズ]]』で、若かりし頃の萩本(演者は[[小堺一機]])の、これらのエピソードを描いている。 ===コント55号=== 坂上二郎から誘われる形で、一回の舞台契約だけで、[[1966年]]、「'''[[コント55号]]'''」を結成した(しばらくは、その都度の契約だったが、気づいたらコンビになっていたそうだ)。 [[前田武彦]]と組んだ[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の公開生放送『[[お昼のゴールデンショー]]』([[1968年]]~[[1971年]])で人気に火がついた。以降、『[[コント55号の世界は笑う]]』(フジ)、『[[コント55号の裏番組をぶっとばせ!]]』『[[コント55号のなんでそうなるの?]]』(ともに[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、『[[チータ55号]]』『[[みんなで出よう!55号決定版]]』([[東京放送|TBSテレビ]])、『[[ウォー!コント55号!!]]』『[[コント55号!!笑ってたまるか!?]]』(NETテレビ・現在の[[テレビ朝日]])など、テレビを席巻した。その後もコンビとしての活動は続いたが、[[1975年]]に始まり、[[久米宏]]司会で大人気となった『[[ぴったし カン・カン]]』(TBSテレビ)ではグループリーダー役など、昔のコンビ芸とは違い、次第に個々の活動に入っていった。 ===視聴率100%男=== [[1972年]]から始まった[[ニッポン放送]]のラジオ番組『[[欽ドン!|欽ちゃんのドンといってみよう!!]]』には単独で出演。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇し、1975年には土曜の夜に公開放送で行われた『[[欽ちゃんのドンとやってみよう!]]』(フジ)として、テレビ番組化された。当時同局で司会を担当していた『[[オールスター家族対抗歌合戦]]』([[1972年]]~[[1986年]]、ただし萩本は[[1984年]]6月限りで司会を降板)や、『[[スター誕生!]]』(日本テレビ)において編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶりは、「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み大きく開花し、のちの番組においても一連の素人扱いぶりは天才的な至芸を極めた。 また、この番組のオファーがあった際に「僕は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望した。これが現在の[[アシスタント]]の走りといわれる。 以降、間を置いて[[1981年]]には月曜9時に『[[欽ドン!良い子悪い子普通の子]]』シリーズ(フジ)が開始。[[1976年]]から始まっていたホームコメディ『[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]]』(欽どこ)(朝日)、[[1982年]]に始まった『[[欽ちゃんの週刊欽曜日]]』(TBS)と高視聴率番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取った。これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「[[欽ちゃんファミリー]]」として巣立った。しかし『欽ちゃんの週間欽曜日』はとてもシラケる番組で、この頃は『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の頃の面白さ・輝きは完全になくなっていた。このシラケぶりが、1985年からの欽ちゃんの休養の原因である。 萩本は素人をお笑いタレント化するのが非常に上手かっただけではなく、意外な有名人のお笑いの才能を引き出すことにも長けていた。[[前川清]](歌手、元々はクールな二枚目キャラ)、[[内山田洋とクール・ファイブ]](ムード歌謡グループ)、[[中原理恵]](若手歌謡曲歌手)、[[真屋順子]](元は正統派の舞台女優)、[[志賀勝]](悪役俳優)など、それまでお笑いに縁がなかった面々を自分の世界に引き込み、新たな才能を育てたと言える。 その反面、萩本は自分の番組内で人気と知名度が高まった面々を、あっさりと切り捨てることも多い。萩本の番組に出演したことで強い色が付いてしまった結果、その後の俳優やタレントとしての活動に制約が生じ、完全に低迷してしまう例も多く見られた。彼らが人気と知名度を獲得したのは、多くには萩本の力によるものであるにも関わらず、自分の実力を過信してしまう例もあったと言われる。萩本が認める「唯一の弟子」である[[斉藤清六]]も、「欽どこ」出演により一時は人気を博したものの、近年テレビへの出演が少なくなっている。 一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、[[1971年]]開始の『スター誕生!』(日本テレビ)を皮切りに、先述の『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ)では司会者として、また、[[1978年]]から現在も続いている『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]』(日本テレビ系)と[[1975年]]に始まった『[[ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]]』(ニッポン放送)では初期にメインパーソナリティを勤め、番組の顔ともなった。 1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組をすべて打ち切り、半年間ほど休養する。理由について本人は「『100%男』と言われるまでに至った人気を維持していく事に自信がもてなくなった」と説明、また当時人気のあった『[[オレたちひょうきん族]]』などの一連のアドリブ主導のテレビ番組が嫌になったとも言われる。本人は大のアドリブ嫌いで、コント55号のコントでもアドリブを連発する坂上二郎に対し、舞台裏では「二郎さんが台本通りやってくれない」と毎回楽屋で泣いていたという逸話がある。しかし一方では[[齋藤太朗]](日本テレビディレクター)の「台本どおりのコントをやって欲しい」との要求に対し「演者には演者としてのプライドがある」と反発し、舞台ではアドリブを連発していたとのエピソードもあり、決してアドリブを全否定していたわけではないようだ。また視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり嫌気が差したとも本人は後に述べている。 ===休養後=== 休養復帰後、テレビに復帰するも次々と番組打ち切りの憂き目に遭い、またこの頃80年代前半には[[ビートたけし]]・[[タモリ]]らと共に「お笑いBIG3」とされてきたが、その「BIG3」の座も[[明石家さんま]]に明け渡すなど人気においても以前ほどの勢いはなくなった。しかしながら今でも『[[欽ちゃんの仮装大賞|欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞]]』(日本テレビ)の司会などでテレビに登場していることもあり、彼の顔を知らない人はまず少ない。彼の番組や舞台をきっかけに活動の域を広げた[[関根勤]]、[[小堺一機]]、[[はしのえみ]]、[[柳葉敏郎]]、[[勝俣州和]]らは現在もテレビやラジオ、舞台で活動を続け、また[[君塚良一]]、[[大岩賞介]]といった脚本家を育成させる等、芸能界、放送界における彼の影響力は強い。当時、東京では無名に近かった[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]を自らの番組に出演させて、東京進出のきっかけを作っている。笑いの方向性では対極とも言えるダウンタウンだが、彼らは義理を非常に重んじる面もあり、萩本には他の先輩芸人とは別格の念を持っておりラジオ番組のネタで萩本を揶揄するネタが来たときも「萩本さんの悪口言わんといてくれよ(浜田)」と言っていた。松本は著書で、あの時期のダウンタウンに好き勝手やらせて(他のタレントには細かくダメ出しをしていたのに)OKを出していた大将はやっぱりすごい、と評している。 また同時期に[[ジミー大西]]の才能を見いだし10年に1度の天才芸人を発見したと喜ぶが2人きりで楽屋に入り出て来た後「天然だったんだね…」と一言残し落胆するが、この言葉が天然ボケの言葉を定着させることとなる。[[1998年]]には[[長野オリンピック]]の閉会式司会を担当。また、1990年代以降、前川清や自らが主催する[[欽ちゃん劇団]]の舞台などで演出家としても活動している。 音曲に合わせ踊りながら[[じゃんけん]]をして、負けた者が服を脱いでいく[[野球拳]]は、『裏番組をブッ飛ばせ!』で使ってから世間に広まった。ただし本人は当時はこの役を相当嫌っていたようである。理由は汚れ役であることと、野球拳が主体となり自分たちのコントが2次的な存在になることへの嫌悪感があった。その後の芸風がそこからかけ離れているのはこの苦悩と思われる。ただし2005年の野球拳発祥の地松山での祭りでは、野球拳(本来の野球拳は服を脱がない)で出演した。この際野球拳について35年ぶりに謝罪し話題を呼んだ。時間がこの苦悩を解決したのであろう。また、じゃんけんの「あっち向いてホイ」は『スター誕生!』の欽ちゃんコーナーで放送されたのをきっかけに全国に広まったものである。 「欽ドン!」「良い子、悪い子、普通の子」「欽ちゃん劇団」など、彼の発案による冗談やネタは数多い。  2015年に駒澤大学に合格した。2月27日の超報道で放送された ===欽ちゃん球団=== {{節現在進行}} 高校時代は野球部に籍を置くいわゆる高校球児だった。そのためか、近年の野球人気の凋落を危ぶみ、野球はもっと楽しいスポーツだと[[2004年]][[12月26日]]に[[2005年]]度からの[[日本野球連盟 (社会人野球)|日本野球連盟]]加盟を目指し、関東を本拠(後に[[茨城県]][[桜川村]]=2005年3月22日に[[平成の大合併]]に伴い[[稲敷市]]になる=を本拠地に制定)とした社会人野球チーム「[[茨城ゴールデンゴールズ]]」を結成した。萩本は、独自のマイクパフォーマンスや女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などの参入など、前例のないチーム作りを推進し、茨城GGを[[アマチュア野球]]随一の人気チームへと成長させた。これにより、[[森田健作]]や[[山本譲二]]、[[森口博子]]ら著名人が監督となって[[クラブチーム]]を設立する事例が続出し、野球人気の回復に大きな功績を残した。 しかし、[[2006年]][[7月19日]]に遠征先の[[北海道]]で、所属選手で元[[極楽とんぼ]]の[[山本圭一]]の17歳女性への[[性的暴行]]疑惑および[[吉本興業]]解雇という一連の事件が起こった翌朝、集まった報道陣の前で「事が事だけに山本だけが責められる問題ではない。野球を始めたのは僕なので、大好きな野球だけど辞めることにしました。ごめんなさい」と涙ながらにゴールデンゴールズ球団を解散することを発表した。 しかしこの解散発表が様々な波及を呼び、地元市民による存続署名活動が展開されたことや各メディアのアンケートなどで存続要望が高かったことなどもあり、[[7月22日]]新潟県での[[セガサミーホールディングス|セガサミー]]との試合の前に球場で解散の撤回を発表した。撤回は各メディアやアンケートでも支持を集めたが、自分の感情に任せて安易な解散宣言をしたり、球団存続の要望が出るとすぐに撤回するなど事件にかかわってない所属選手を振り回すことになり、一部の現役スポーツ選手などから苦言を呈された。さらに、この騒動のため萩本自身が監督責任を自ら取るということはなく指導者としての資質を問われるという面もあった。さらに、'''山本以外の選手も事件に関わっていたこと'''に対する謝罪は一切なかった。 山本は事件を起こした翌日に電話で謝罪したが彼は「話は聞きたくない! 今すぐ切れ!」と山本に言ったという(事実、山本に対する「破門」と「除名」)。 また、山本圭一に対して、当初解散発言の際「山本氏に何か一言」と求められ、カメラの前で「球団なくなっちゃったよ!」と非常に厳しい発言をしていたが、解散を撤回するとともに「背番号をとったユニフォームを着てお客さんのいない夜に普通の山本で遊びにおいでよ!」という温かい言葉に変わっていった。なお、アマチュア野球の連盟に解散の意思を伝えたのは「野球やめます」発言の8時間前である。 また、『[[ワイド!スクランブル]]』のインタビューで、問題が解決したら、背番号0のボール拾いからやり直しさせる、と更生を兼ねてチームに復帰させることを示唆している。だが、その一方で、チームの大幅なリストラを提示し、山本の復帰は無いと発言するなど、流動的である。山本が2007年1月に日向のキャンプに訪れた時に萩本に謝罪し、見学していたファンからは山本に対して「山本がんばれよ!」等の声が上がった。しかし、彼は山本を未だに許さない態度を示すコメントを述べた。 チーム内では選手、コーチともに萩本を監督とは言わず「欽一監督」を略して'''「欽督(きんとく)」'''と呼んでいる。また[[オープン戦|練習試合]]では自らハンドマイクを片手に試合の解説や選手の激励を行い、観衆の共感を浴びている。また、[[宮崎県]]においても、姉妹チームの[[宮崎ゴールデンゴールズ]]を結成。 ==その他== ===チャップリンとの面会=== 萩本は[[1971年]]1月にフジテレビの番組企画で、当時[[スイス]]に隠棲していた[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]に面会している。これはその頃萩本が「尊敬するコメディアン」としてチャップリンの名を挙げていたことから始まったものであった。実のところ、萩本は「世界で一番有名な人だから」という程度の意識で彼の名を出していたに過ぎず、このときはチャップリン映画も2本しか見たことがなかったという。 その頃、チャップリンは誰にも面会しないと言われており、企画した側も実現するかどうか危ぶんでいたが、萩本はむしろそういう相手だからこそ会ってくれるだろうとスイスに出かけていった。萩本に与えられたスケジュールは4日間。初日は、予想通り警護の人間から「チャップリンはいないから会えない」と謝絶を受ける。翌日、車で帰宅するチャップリンと窓越しの対面を果たすが、邸内にはやはり入れなかった。3日目には、かつてチャップリンの運転手を務めた[[高野虎市]]のアドバイス(「女性なら会うだろう」「日本人が好き」というもの)に基づき、土産の[[博多人形]]を携えていくが、マネージャーから「預かりはするが、日本からの客人が置いていったとだけ伝える」という冷たい対応を受ける。そして最終日、せめて敬意を持っているという気持ちだけでも伝えたいと粘ったものの、マネージャーはやはり会わせないという返答であった。萩本が怒りと失望から、日本語で「あの(ヒューマニズムにあふれた)映画は嘘だ」などと大声で叫んでいると、それを聞いたチャップリン本人が「何事か」と出てきて暖かく迎え入れた(萩本によると、いろいろとたかりに来るような訪問者がいたため、マネージャーが来客を会わせないようにしていたという)。 この面会以後萩本はチャップリンに対して心からの敬意を抱くようになり、作品も全てきちんと見ることとなった。[[1977年]]12月、ニッポン放送『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の生出演中にチャップリンの訃報を伝えられると、萩本は思わず泣き出した。 ===結婚報道と家族=== テレビの「欽ドン!」のヒットで時代の寵児となっていた頃に結婚を発表したが、相手の名前などの詳しい情報は伏せるようマスコミに要望を出した。これは相手が、浅草での駆け出し芸人時代に知り合ったショーダンサーだったからである(自伝によると、報道自粛を伝えた際にはマスコミ関係者からは抗議されることもなく、皆事情を知っていたため拍手を受けたとのこと)。また、妻との間に3人の息子がおり、一般人という理由で長らく公表されなかったが、2007年に刊行された自伝『なんでそーなるの!』([[日本文芸社]] ISBN 978-4537254686)において実名入りで紹介された。 ===その他=== * 大手テレビ制作会社「[[テレビマンユニオン]]」の大株主として上位10位内に名を連ねている。これは、日本初の独立系プロダクションとして同社が創立された際、同じ表現者として彼らの志に共鳴した萩本が出資を申し出たことによるものである。 * かつては野球以外にも、[[競馬]]の馬主として[[小倉記念]]を優勝した[[アンブラスモア]]([[萩本企画]]名義)、[[ビヨルリンク]]、[[1977年]][[日本ダービー]]にも出走したことがある[[パリアッチ]]などを所有していた。 * 趣味では[[将棋]]をたしなんでいて、[[日本将棋連盟]]は萩本に対して段を免状した。2006年正月に放送された番組で、[[森内俊之]]九段と組み、ペア対局で勝利した。一時期高校竜王戦([[読売新聞社]]主催)の前夜祭の司会も務めた。 * 弟子入りを志願する者が来ると、まずは食事に連れて行く。[[箸]]の持ち方を見るためである。これは'''「正しい箸の持ち方をしていることは親の躾(しつけ)を素直に受け入れている証拠であり、その素直さが成長には不可欠である」'''と本人は言う。 * [[アイスクリーム]]が大の苦手。昔、喫茶店でアルバイトをしていた頃、売れ残ったアイスクリーム数個を食べさせられ、それ以来食べられなくなった。 * 自身の著書の中で「'''ミニスカートが嫌いだ'''」と記している。そのため萩本の番組の女性レギュラー出演者には'''「ミニスカートをはかないでほしい」'''と要請していた。 * [[2007年]][[8月18日]]〜[[8月19日|19日]]に放送された『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』のチャリティーマラソンランナーになった。66歳という年齢等を考慮して、24時間あれば、普通の人なら歩いてでも完走できる走行距離を70kmとした。残り900m余りを残したまま放送時間内(20時52分30秒)でのゴールはできなかったが、後番組の生放送『[[行列のできる法律相談所]]』内にてゴールした。同番組内でのゴール時の瞬間最高視聴率は42.9%を、平均視聴率は35%超を記録した。台本が好きな彼にとっては、台本どおりに時間内の完走が出来なくて悔しがっていた。所属事務所によると次の日は午前9時半に起床し、いたって元気な様子で食事も通常通りとったという。驚異的な視聴率については、自宅に届いた関係者からのお祝いの花で知ったといい、「完走できたこととひとくくりで喜んでいると思います」と代弁した。 ==出演作品== ===テレビ(単独での担当番組)=== *エブリ(2014年3月14日、VTR出演。日本テレビ) [[スター誕生!]](1971~1980、司会、日本テレビ) *[[シークレット部隊]](1972年、TBSテレビ) *[[日本一のおかあさん]](1972~1976、司会、TBSテレビ) *[[オールスター家族対抗歌合戦]](1972~1984、司会、フジテレビ) *[[シャボン玉ボンボン]](1973年、日本テレビ) *[[欽ドン!|欽ちゃんのドン!とやってみよう!!]](1975~1980<土曜版>、1981~1986<月曜版>、フジテレビ) *[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]](1976~1986、[[テレビ朝日]]) *[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]](1978~1984年はメインパーソナリティー、1986~1989年は主要出演者の一人として参加、2007年はマラソンランナー/70km走行)、[[日本テレビ]]) *[[欽ちゃんドラマ・OH!階段家族!!]](1979年、日本テレビ) *[[欽ちゃん劇場・とり舵いっぱーい!]](1979年、日本テレビ) *[[欽ちゃんの仮装大賞|欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞]](1979年~、日本テレビ) *[[欽ちゃんの9時テレビ]](1980~1981、フジテレビ) *[[欽ちゃんの週刊欽曜日]](1982~1985、TBSテレビ) *[[たみちゃん]](ドラマ、1984年、テレビ朝日) *[[日曜9時は遊び座です]](日本テレビ) *[[TVプレイバック]](1985~1989、司会、フジテレビ) *[[ドキド欽ちゃんスピリッツ]](1986、TBSテレビ) *[[欽ちゃんの気楽にリン]](1988年、日本テレビ) *[[欽きらリン530!]](1988年、日本テレビ) *[[欽ちゃんのどこまで笑うの?!]]→[[欽どこTV!!]](1988年、テレビ朝日) *[[欽ちゃん走るッ!]](1991年、フジテレビ) *[[よっ!大将みっけ]](1994~1995、フジテレビ) *[[NHK朝の連続テレビ小説|連続テレビ小説]] [[ひまわり (朝ドラ)|ひまわり]](1996年 NHK)ナレーター/南田家の犬・リキの声 *[[欽ちゃんとみんなでしゃべって笑って]](1998~2002、NHK) ポン(2014年2月11日 VTR 日本テレビ) 花丸。 笑っていいとも(2014年2月14日フジテレビ)Yahoo!に出た事乗っていた 波乱爆笑(2014年11月9日。日本テレビ) 徹子の部屋(2015年2月6日。テレビ朝日) ===ラジオ=== すべて[[ニッポン放送]]である。 *どちら様も欽ちゃんです(1971~1972) *[[欽ドン!#ニッポン放送ラジオ 欽ちゃんのドンといってみよう!|欽ちゃんのドンといってみよう!]](1972~1979) *[[ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]](パーソナリティとしては1975~1985) *欽ちゃんのここからトコトン(1979~1980) *[[ニュースワイド 欽ちゃんのもっぱらの評判]](1987~1988) *[[欽ちゃんのラジオでいってみよう!]](2007年10月4日放送スタート予定) ===アニメ=== *[[ウォレスとグルミット]](ウォレス役 声の出演) ===映画=== *手(1969年) *俺は眠たかった!!(1970年松竹) *第1回 [[欽ちゃんのシネマジャック]](1993年) *第2回 欽ちゃんのシネマジャック(1994年) *[[タッチ (漫画)|タッチ]](2005年) *[[ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!]](声の出演 2006年) ===CM=== *サクラカラー24([[コニカ|小西六写真工業]] [[1976年]]、「どっちが得かよーく考えてみよう」のコピー) *サラダ一番([[もち吉|森田あられ]]) *[[霧ヶ峰]]([[三菱電機]]) *[[バスクリン]]([[ツムラ|津村順天堂]]) *[[カルピス]] *[[アクサ生命]] *[[全国法人会連合会]] *[[公共職業安定所]](ハローワーク) *[[江崎グリコ]]([[1985年]]・企業、「I LOVE GLICO」のコピー) ===ゲーム=== *[[実況パワフルプロ野球12]]サクセスで隠しキャラクターとして登場。特定の手順で進めると登場 ==著書== * 欽ちゃんつんのめり * 欽ちゃんのはにかみ人間学―どうしてオレってばかなんだろう * 欽ちゃんどこまで書くの * 欽ちゃんの愛の世界45―一日一語で幸せづくり * とっておき十話 * テレビに恋して20年 *「笑」ほど素敵な商売はない * まだ運はあるか * 快話術―誰とでも心が通う日本語のしゃべり方 * 欽ちゃんの人生コントだよ!! * 人生にはチャンスが三度ある―成功する人の演出力 * ユーモアで行こう! * なんでそーなるの!―萩本欽一自伝 * 欽言力 ==パジャマ党== [[パジャマ党]]は、萩本欽一の番組に関わる[[放送作家|構成作家]]集団で、「欽ドン!」などのヒットにも貢献した[[ブレーン]]でもある。構成員のうち、鶴間・大倉・君塚の3氏は「サラダ党」と称していたこともある。萩本自身も「'''秋房子(あき ふさし)'''」の筆名で番組構成にも関わっていた。 *[[大岩賞介]] *[[大倉利晴]] *[[永井準]] *[[詩村博史]] *[[鈴木しゅんじ]] *[[鶴間政行]] *[[益子強]] *[[君塚良一]](後に『[[ずっとあなたが好きだった]]』『[[踊る大捜査線]]』などの脚本を手がける) ==関連項目== *[[欽ちゃんファミリー]] *[[萩本企画]] *[[茨城ゴールデンゴールズ]](萩本がオーナーと監督を務めている野球チーム) *[[宮崎ゴールデンゴールズ]] *[[ザ・ドリフターズ]] *[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]] ==外部リンク== *[http://www.asaikikaku.co.jp/profile/hagimoto/index.html 浅井企画(プロフィール)] *[http://hagimoto-kikaku.co.jp/index.html 萩本企画] {{先代次代2 |タイトル = [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」#チャリティーマラソン|24時間テレビ チャリティーマラソンランナー]] |先代名 = [[アンガールズ]] |現代名 = [[萩本欽一]] |次代名 = - |背景色 = #EBF1F9 |代タイプ = 年 |先代 = 2006 |現代 = 2007 |次代 = 2008 }} {{DEFAULTSORT:はきもと きんいち}} [[Category:お笑い芸人]] [[Category:野球監督]] [[Category:1941年生]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:馬主]] [[Category:欽ちゃんファミリー|*]] [[Category:萩本欽一のバラエティ番組|*]] {{People-stub|はきもと きんいち}}