河村建夫

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河村 建夫

河村 建夫(かわむら たけお、1942年昭和17年〉11月10日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(8期)、自民党選挙対策委員長(第2代)。

山口県議会議員(4期)、文部科学大臣(第34代)、内閣官房長官第76代)、拉致問題担当大臣等を歴任。

父は、元山口県議会議員の河村定一。実弟の田中文夫は、山口県議会議員。

自民党議員とは思えぬほど媚韓であり、外国人参政権夫婦別姓慰安婦に注力している。

来歴・人物

山口県阿武郡三見村(現萩市)生まれ。山口県立萩高等学校を経て、慶應義塾大学商学部を卒業後、1967年(昭和42年)、西部石油に入社。

1976年(昭和51年)、父・河村定一の死去に伴う山口県議会議員補欠選挙(萩市選挙区)に自由民主党公認で出馬し、初当選を果たした。以後当選4回。

1990年(平成2年)、引退する田中龍夫の後継で第39回衆議院議員総選挙旧山口1区(定数4)から自民党公認で出馬し、当選(当選同期に岡田克也佐田玄一郎亀井久興中谷元森英介福田康夫石原伸晃小林興起塩谷立古屋圭司細田博之松岡利勝小坂憲次山本拓赤城徳彦村田吉隆簗瀬進山本有二など)。以後7回連続当選。

1998年(平成10年)、所属していた三塚派内で森喜朗亀井静香の主導権争いが先鋭化。亀井の離脱に伴い河村、中川昭一平沼赳夫ら亀井グループが三塚派を退会し、伊吹文明佐藤静雄らが属す中曽根派と合体して志帥会を結成した。

2001年(平成13年)、第2次森改造内閣で初代文部科学副大臣に就任。第1次小泉内閣発足によりいったん退任するが、第1次小泉改造内閣で再度、文部科学副大臣に任命された。第1次小泉再改造内閣では文部科学大臣に昇格して初入閣し、第2次小泉内閣まで務める。

2006年(平成18年)、同じ伊吹派所属の中川昭一政務調査会長の下、政調会長代理に任命された。翌2007年(平成19年)、党広報本部長に就任。

2008年(平成20年)、麻生内閣内閣官房長官に任命され、2度目の入閣。2009年第45回衆議院議員総選挙では、内閣官房長官の要職にあり、また全国的に自民党に猛烈な逆風が吹き荒れたが、対立候補に比例復活すら許さず、早々に7選を決めた。総選挙後、衆議院懲罰委員長に就任。

2010年(平成22年)、自民党選挙対策局長に就任。2012年(平成24年)、自民党選挙対策局長が自民党選挙対策委員長に移行し、続投する形で就任。

活動

2005年(平成17年)6月には「日韓国交40周年国際学術会議」の運営委員長を務め、日韓議員連盟役員とともに訪韓。同年12月には、約1000万人の移民受け入れを目指す外国人材交流推進議員連盟立ち上げに参加。

日本・中国・韓国子ども童話交流の実行委員会事務総長を務め、イベントにも積極的に参加している。

2007年(平成19年)11月8日に開催された、在日本大韓民国民団が主催する「永住外国人地方参政権の早期立法化を!」と訴える全国決起大会に国会会期中にもかかわらず参加し、「もう放置できない。真っ正面から取り組む」と宣言した。

同年12月、北朝鮮との国交正常化実現を目指す議員連盟、自由民主党朝鮮半島問題小委員会を立ち上げ、副委員長に就任した。

会長を務める議員連盟「外国人学校および外国人子弟の教育を支援する議員の会」において、在日外国人の子供の教育環境を改善するため外国人学校(朝鮮学校を含む)を対象とした支援策について、

  1. 振興助成金制度(仮称)の創設
  2. 各種学校認可基準の策定
  3. 通学定期割引制度の適用

という提言をまとめた。

政策・主張

表現規制推進

「ホラー映画などを社会から除去する事が少年犯罪問題の対症療法」という趣旨の発言を国会でしている。

選択的夫婦別姓制度推進

選択的夫婦別姓制度に賛同しており、2002年(平成14年)7月には、「例外的に夫婦の別姓を実現させる会」の会長代理を務め、家裁許可制の選択的夫婦別姓法案の成立を目指した。

外国人参政権推進

永住外国人への地方選挙権付与には積極的である。友人に在日韓国人がいる親韓派であり、「在日韓国人の地方参政権問題は日本社会の成熟度を示すものだ」と述べている。反対論に対しては「日本は島国ということもあって国際化が遅れており、外国人に対する基本的なスタンスが定まっていない。旧世代には表現しがたい抵抗感がある。人権や反差別に対する教育が弱いのも原因になっている」と批判している。

人権擁護法案反対

人権擁護法案には反対の立場を取る。2005年(平成19年)に結成された、人権擁護法案の国会提出に反対する議員連盟「真の人権擁護を考える懇談会」では副会長を務める。

歴史教科書

民団新聞』によると、文部科学大臣在任中の2004年(平成16年)6月14日、新しい歴史教科書をつくる会作成の教科書について、つくる会のシンポジウムにて「新しい定型によって新しい教科書が出て参ったことを、私は前進だと思います」と発言した。

朝鮮通信使

朝鮮通信使が訪れた縁故地における日朝・日韓の相互交流、相互友好親善促進を目的とする朝鮮通信使交流議員の会の会長を務め、江戸天下祭に参加した際には「江戸天下祭が盛り上がったのはひとえに朝鮮通信使のおかげ」としている。

慰安婦問題

2014年(平成26年)3月14日、日韓議員連盟を代表して韓国の国会を訪問し、与党セヌリ党党首の黄祐呂と面談。慰安婦問題の解決策に向けて取り組んでいくとともに、その他の比較的容易な懸案から解決方法を模索していくことで一致したと報じられた。

「償い金」再開を。慰安婦問題で自民・河村氏
自民党の河村建夫選対委員長は2014年7月23日、米ワシントンで講演し、改善の兆しが見えない日韓関係について、「まず(従軍)慰安婦問題を処理すべきだ。55人の元慰安婦が生存していると聞いており、そういう方々にこれまでやってきた形のことができないか」と述べ、かつてアジア女性基金が行っていた「償い金」の支給を再開すべきだとの考えを示した。

同基金は村山内閣1995年に設立。国民の募金を原資に、首相の謝罪の手紙を添えて元慰安婦に償い金を渡してきたが、受け取りを拒否する元慰安婦も多く、基金は2007年に解散している。

日韓議員連盟幹事長を務める河村氏は「来年は日韓基本条約締結50年、第2次世界大戦終了70年という大きな節目。年内に日韓首脳会談ができる環境をどうつくるかにすべてを結集する」と強調。「これまでの(償い金支給の)形を取っていけば解決の糸口はある」と指摘した。

主な所属団体・議員連盟

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不祥事

献金

2008年(平成20年)9月24日、行政指導を受けている7企業(旧日本道路公団発注の橋工事の談合事件に関連していたピーエス三菱など)から、410万円の献金を受けていた。河村の事務所側は「寄付を受けた当時は十分チェックしていなかった。調べて問題があれば返還する」 としている。

事務所費問題

2008年(平成20年)10月1日、河村の3つの政治団体が2007年までの3年間に、元公設秘書の自宅マンション(東京都千代田区)を事務所として届け出て、事務所費など計約2200万円の経費を計上していた。3団体は2008年3月に解散している。河村の事務所側は「事務所としての使用実態はあったが、誤解を受ける恐れがあると判断し解散した」と説明している。


労働保険未加入

2009年(平成21年)1月、河村の資金管理団体「建友会」が、勤務するスタッフに対する労働保険に未加入であった。

労働保険の中でも労働者災害補償保険は、雇用者がいれば加入義務があると労働者災害補償保険法により定められており、2004年(平成16年)12月頃、自由民主党本部は「建友会」に対し社会保険や労働保険に適切に加入するよう指導したが、「建友会」では放置されていた。2009年(平成21年)1月26日、河村は内閣官房長官として記者会見し、「労働問題が大きな社会問題となっており、私も含め閣僚は関係法令について厳正に対応しないといけない」と謝罪し、「建友会」も今後は労働保険に加入する意向を示している。

内閣官房機密費

第45回衆議院議員総選挙で自民党が敗北、下野が確定した直後の2009年(平成21年)9月1日(麻生内閣退陣の2週間前)、内閣官房報償費から月単位で通常の5倍にあたる2億5千万円を引き出していた事が判明した。大阪の市民団体「公金の違法な使用をただす会」から背任罪詐欺罪で告発されている(2011年10月に不起訴処分)他、「政治資金オンブズマン」からも使用目的を開示するよう情報公開を申し立てられた(不開示となったため取り消し提訴に発展している)。

発言

2009年(平成21年)6月17日記者会見において、内閣総理大臣の麻生太郎民主党代表鳩山由紀夫との間で行われた党首討論について言及した。鳩山の自殺対策の意見について、河村は「お涙ちょうだいの議論を行うゆとりは無いのでは」と発言した。自殺対策に取り組んでいる各地のNPOから発言の真意を問う声が相次ぎ、河村はこれを受け陳謝した。当時の河村は自殺総合対策会議会長を兼任しており、政府が推進する自殺対策の最高責任者であった。

2009年(平成21年)8月8日宇部市で行なった記者会見で、女優酒井法子覚せい剤取締法違反容疑で逮捕状が出された(同日夜に逮捕)件に関し「芸能界では薬物汚染の問題が指摘されている。徹底的に解明してもらいたい」と、閣僚としての立場から事件についてコメントしている。

2012年(平成24年)7月18日に新潟市で開かれた次期衆院選の同党候補の会合で講演し、「景気対策をどうするか、民主党政権は手つかずの状況で、日本の経済力に黄信号がともっている。その天誅(てんちゅう)が、まさに3・11の(東日本)大震災だった」と述べたが、講演後に釈明した。

関連項目

外部リンク